昭和51年2月1日月次祭
入力者・井出一憲
教祖金光大神様のおかげであたくし共が、天地金乃神様のおかげを自由に、又は限りなく頂けれる道を教えて頂くのである。此の方金光大神あって神が世に出たのである。神からも氏子からも双方の恩人は此の方金光大神であると、天地の親神様が仰せられますように、わたくし共氏子といたしましても教祖金光大神様あって、天地金乃神様のおかげがこのように頂けるようになったと言う事は、取りも直さず金光大神様の御神徳によるものでございます。そこで金光大神を通してお取次ぎによって、あたくし共が天地金乃神様のおかげが受けられるようになったと言う事は、うーん又受けられと言う事は、只金光様お願いしますとお取次ぎを願ってお願いをすると言うだけではいけん。お取次ぎを願ったならば、お取次ぎを頂いて帰らなければ値打ちがないのでございます。お取次ぎを願いお取次ぎを頂いて帰る、
そのお取次ぎを頂いて帰る中に、天地金乃神様のおかげが無尽蔵に限りなく頂けれる人間真実幸福の道が、開かれて来るのでございます。皆さんこの頃あたしが本当にそれを思うんですけども、生神金光大神天地金乃神とこう、もう一緒たくりには唱えられない気がするんです。生神金光大神様生神金光大神様あなたのおかげで、天地金乃神様のおかげが受けれるようになったと言う事をまずは、お礼を申し上げてのち天地金乃神様、あなたのおかげが又は金光大神のおかげで頂けれるようになったと言う事を、こう別々にならなければならないように思います。生神金光大神天地金乃神一心に願えおかげは和賀心にあり、その和賀心をお取次ぎ下さるのでございます。和賀心と言うともう大変に広い範囲の事でございますから、もう神様は教祖様はあらゆる角度から、その和賀心を教えて下さるのでございます。第一和の心と言うのは和らいだ心、ね、同時に壊れない心不壊のもの、壊れない和らいだ心をお取次ぎ下さる。賀の心と言うのは喜びの心、明けましておめでとうございますと言うあの賀正の賀である。所謂目出度くならなければいけない。心がにぎやかにならなければいけない。
それこそ赤飯を炊いて祝うような心がなからなければ出来ない。これが賀の心。この和賀心和らいだ心しかもどのような場合であっても、壊れないと言う心、賀の心と言うのは喜びの心、しかもそれはジメジメしたものではなくて、おめでとうと言う心である。おめでとうございますと言うような心である。赤飯を炊いて祝うような心持ちであります。そう言う心をもうあらゆる角度からあらゆる教えは、その事ひとつに絞って教えてあると言うても過言ではない位であります。だからあたくし共この心を頂かせて頂く為の信心、又は精進でなからなければなりません。一生懸命精進をいたします、朝の御祈念にお参りをして来る、大払い信行をさして貰う。いかに心が和らぎ喜ぶ心、それこそ我情もなからなければ我欲もないと言ったような心の状態が開かれて来る、ね、これは精進による事でございますけれども、折角精進して心の中に頂いたその心が、お参りから帰って家に帰った頃にはもう影を薄うなってしまっておる、それは要心が足らんからじゃと、所謂精進と要心が必要なのでございます。
もうわたくしは今日びっくりした事があるんです。今日はもう3時までぐらいに千名以上の方のお取次ぎをさせて頂いております。今日はもう長崎鹿児島佐賀熊本大分宮崎もう九州全県から、まあ代表の方達と言うて可笑しいですけどね、そう言う九州中のもおらしたご信者さん方がお取次ぎさせて頂いた。有難い事だなと、この頃から神様が今の合楽の御比礼はこれからの合楽の基本?まあ普請で言うならば、要約地形打ちが済んだとこだ、これから沢山な人が又助からなければならない為には、やはり宅建に何名づつかそのやっぱり先日のような代表のようなのがいる訳です。ね、ほなら宮崎県中が参って来る訳じゃありません。昨日から12名の方が宮崎、昨日の夕べからお参りしてきとると言うようにね、まあ10名か10何名かの人が宅建にこうやって例えばおるといたしましても、それはもう期し足る事ですけれども、ね、そこからひとついよいよ繁盛のおかげになって参りまして、
九州中が助かり日本中が助かり、世界にいよいよ和賀心時代を引かせて頂く程しの、その基礎基本が今合楽では出けておる所だと言うお知らせを頂きました。いよいよそう言うような働きが始まって参ります時に、こちらに力がなかったらでけません。やはり力を受けておかなければならん。その力と言うのは所謂和賀心の力であります。教祖様はあらゆる角度からこの和賀心をあたくし共に取り次いで下さる。どうでも金光大神のおかげで天地金乃神様のおかげを受ける事の為には、天地金乃神様の心を頂かなければなりません。言うならば心が分からなければなりません。昨日の御理解に年よりを大事にせよと言う、年よりは一年でも早くこの世に出て来てこの世のお役にたってようなものであるから、年よりを大事にせよと、じつは金光大神を通して天地金乃神様が、そのように教えて下さると言う事は、それが神様のお心なのです。ね、わたくし共が年よりを本当に芯から大事にされると言う、その心はそのまま神様の心に叶うのです。ですからどうでもその年よりを大事にさせて頂けれるおかげを頂かねばなりません。
ごまかしはいかん、やはり芯から年よりを大事にすると言う事にならなければいけない。何故?大事にさせて頂かなければならないか。ね、そりゃ例えば乗り物に乗りましても、お年よりがおられると、さあどうぞと言うて若い者が席を替わってあげます、所謂年よりを大事にするのです。所がそのお年よりが、あーそうですかどうもすいません有難うございますと言うて、そのお礼を言うてかければいいのですが、わたしゃ年よりじゃからもう当然当たり前のごとのようにして、座られるとです、今日あの年より席を譲ったばってんろくな奴じゃなかったと、黙って当たり前の事してから腰かけたと、言うような場合もある訳です、ね、又そんな年よりもありますよ、若いもんのくせあんた達腰かけてから年よりと替わらんのと言うとがおる。ね、それこそ昨日の御理解じゃないけど、それこそ頑固爺いであろうが、それこそアクで固めた蒟蒻婆あ、昨日あたくし蒟蒻婆あと言う事言うたらあの、蒟蒻婆あちゃどう言う、知らん事ふうです。今朝からあたし皆さんにその事を教えて挙げたんですけどね。
あの蒟蒻婆あと言うのは、ぐちゃぐちゃしとると言う意味じゃなかです、ありゃアクで固めちゃる蒟蒻と言うには、(笑い)だから蒟蒻婆あ、アクで固めた蒟蒻婆、ね、そう言うその蒟蒻婆でもですよ、どんなに頑固爺いであってもですよ、ね、大事にしなければおられないと言うその元を金光大神は教えて下さるのです。ね、天地の親神様の大きな言うならばドラマの中演出の中にです、ね、やはりその頑固じいも又は蒟蒻婆もおらなければです、本当な神様のお心が分かると言う事は、そう言う様々なそりゃ爺とか婆だけの事ではありません。様々な難儀そのものもです、天地の親神様のあれは神愛の現われです、内の婆さんは兎に角意地が悪いと言うて、嫁さんが泣きの涙に例えばしておりましても、ね、その婆さんのおかげで信心が出けて、おかげを頂いてと言う場合がありましょう。これはその嫁さんを本当に神様が救わねばおかん為に、わざわざ意地の悪い姑親なら姑親をそこに会わせておられるのです。ですから一生内の婆さんは本当にまあ根性の悪い婆さんであったと言うて、過ごすと婆さんも助からんがその嫁さんも助からん事になるのです。そう言う意味で例えばこの世にそう言うお芝居をありましてもね、
例えばうなら先代萩なら先代萩と言うお芝居でも、正岡もおらなければならないどおりに、やしおのような鬼のようなおなごもおらなければでけんのです。鏡山でもそうですいわぶしのようなそれこそ、鬼のような心のおなごもおらなければならんし、また忠義一途のお初のような人もおらなければでけんのです。ね、そのいわうじ様のおかげで言わば二代目尾上になる事が出けたのがお初です。ね、それこそ五十士分一家中、ね、それこそ女の鏡のように正岡が言われたのも、あのやしおと言う夜叉のような女がおったからなのでございます。ね、ですからもう本当にいわうじ様であり、やしお様であらなければならん、信心はそこを分かる事なんです。ね、神様の心が分かってですそのうんじゃろかい?それこそいわうじじゃろか、やしおじゃろと言うような人でもです、それを有難く頂く時に神様がもう心の底から喜んで下さるのです。今朝の御理解は人を軽う見な軽う見たらおかげはなしと言う事であったが、
いつでしたか田主丸のむつやの信司さんが、えーまあチョット言うなら頭が少し弱い人があんまり相手にいたしません、その人そこの隅の方で一生懸命何かむつまじゆう話し合ってるんです、わたしゃそれをこっから見せて頂いておって、降りて行ってからなんか信司さんに本当に有難うと言うて、お礼ば言いたいような心がしたのはどう言うような事だろうかと思うんです。言うならばわたくしの心に天地金乃神様の心があって、その天地金乃神様がその様子をみて誰も相手にはしない、誰もひとり前としては扱ってはくれない、話相手にもなってくれないものの為に、言わば親切に話相手になっておるその氏子にわざわざ神様が、降りて行ってどうも信司さん有難うと言うて、お礼を言いたいような心があたくしの心に起きて来たと言う事はです、天地の親神様の心がそこにあるのです。だからおかげを頂くんです。ね、言わば人を何故軽う見てはいけないか、人が軽う見るようなのを言わば尊んで頂く、
有難しで頂く時にです、神様がそこ行ってお礼を言う代わりにおかげを下さる。ね、だから人を軽うなんかみられないと言う事になるでしょう。それをどうぞ神様おかげを頂かせて下さい、力も下さいお徳も下さいと願いながらです、神様の一番求めてござるものに対して知らん顔しておったんでは、だからおかげにならんと言う事を、ひとつよーく分からせて頂いて、生神金光大神はそこのところ、ね、天地金乃神様のお心を自分の心に受け止めて、それをあたくし共がお取次ぎを願うわたくし共に、お取次ぎをして下さる。そしてお取次ぎを又してわたくし共に、渡して下さるのが金光大神のお役目なんです。今日も丁度4時チョット前に、久富先生の所の2番目の息子さんが今久留米におります。いつも親子三人で必ず日曜の日に参って来る、今日はおばあちゃんも一緒に参ってきとった、でのぞみさんと言いますが今日とても嬉しい事がありましたと、まだあの孝二君と言うのが三つでしょうか、先生今日はああた、この人の従妹になるとがその病気をしとると言うてやってきました。そしたらこの孝二が先生こげな事申しますち、
どげな事言うたかち言うたら、あんたが合楽に参るらんけんたいと言うた。三つの子供がね、そりけどお父さんの方が嬉しなってからね、有難い、のぞみさんほらねほら孝二がたった合楽に参らんけんて言うただけで、あんたが今日嬉しい事があったと言おうが、ならあんたげんお父さんが思うとる事願うとる事、ほんに親孝行ちゃ見やすい事じゃけれども、中々その見やすい事がでけん、親の心が分からんからそれなんです。今日も宮崎からお参りになってられます、石川さんの所の息子嫁の方が初めてここの元旦祭にお参りをさせて頂いた。それもまあ言うなら物見遊山的誘われるから参ろうで参ってきて、そしてお話を頂いて行く内にです、それこそもう体全体でお話を受け止めた、感動した帰り道々も初めて17年ぶりに金光様の有難いと言う事が分かった、おばあちゃんやお姉さんから、ね、いろいろと言われるけれどもひとっつも有難いもなんも、感じた事はなかったけれども、有難かった先日からは宮崎の御信者さん方で、グループを作っておる、おかげの泉勉強会と言ったような、まあ名目のもとに、
えーよってもうそれこそ4時間も5時間も6時間も、そのお話しをさせて頂いてもうそれこそ感動いっぱいで昨日の晩参って、もうそれこそ今朝まで感動が続いておる。その嫁さんとお母さんが石川さんのおばあちゃんと、その二人がここ出て参りましてから、もう本当に金光様の信心の有難さがしみじみ分からせて頂いて、有難いと言うお礼をおばあちゃんが横で聞きよってこういう事を言われるんです。親先生他にもう言う事はない、もうそれこそ天にも上るような思いがいたしますと言う。それこそ天にも上るような思いを親にさせられると言う事なんですけれども、ね、それを内のおばあちゃんをひとつ虐めてやろうとか、こなしてやろうとかはひとっつも思わんけれども、どうすれば婆ちゃんが喜ぶじゃろかと言う事思うから、もうあれもしてやるこれもしてやるけれども、芯から天にも上るような喜びはした事がない。
所が信心の有難さが分かって来たと、お参りがしゆうなってきたと言うたら、おばあちゃんが天にも上る心持ちでございますと言うてお礼を言うております。ね、金光大神はそこん所のお取次ぎをして下さるんです。天地の親神様の心がわかる、心が分かるとです年よりでも大事いやどう言う年よりでも、言わば大事にしなければおられない。軽う見たらおかげはなしと仰るがとてもとても人は軽うみられない、信心の喜びが段々心の中にたぎって参りますと、それこそ人だけではないひとすくいの水でも、ね、おし頂かねばおられない今日の3時からの研修の時に、まあ皆さんの話をきかせて頂いてから、後で話した事ですけれども最近直子の方の3番目の娘です、もう本当にまあ修行に全身全霊今打ち込んでいると行ったような感じです、一日広前から動かん、今までは本当に今までの我が侭をまあお詫びしとる訳でしょう、
最近もうですから心に言う事する事が、ひとつひとつこっちが頭が下がる思い、例えば朝あー一緒にあたくしが出てまいります、ね、ストーブの火をあたくしが必ず5分前に消させます、すとその5分前に必ずしばらくは、そのストーブにお礼を言っておるのでしょう御祈念をしてストーブを消します、今朝もあたし誰もこんから出ろうと思うて襖を開けた出会いがしらに、あの直子が廊下の向こう側にあの御祈念をしておるのです、襖開けた所で、だから襖をひとつ開けるでも所謂御祈念をしなければおられない程しのものが信心なんです。ね、もう一切のものをおし頂かねばおられない心なんです。ひとすくいの水でもあでやおろかにはされんのです、ね、言うならば人を軽うみなと言う事は、物を軽うみなと言う事にもなるのです。その軽うみてはおかげはなしと断言しておられるのですから、いよいよ持って一切を有難くおし頂く心、それは人が軽う見るような人であっても、軽うみらんそれこそ尊しとしておし頂く心、
そう言う心を金光大神はお取次ぎをして教えて下さるのです。ですからそれをあたくし共が頂いて、実生活の上にそれを現す時に神様が喜びなさる筈がないのです。ね、金光大神はね言わば和賀心をお取次ぎ下さると言う事は、一切のものをおし頂かなければおられない心こそ、わたくしは和賀心だと思います。昨日の御理解から言うならば、ね、年よりを大事にせよじゃなくて、せねばおられない心であります、今日の朝の御理解から言うならです、人を軽うみな人だけではない一切のもの一切の事柄に御の字をつけて、おし頂く思いと言うものがすでに和賀心でございます。それが神様の心なのですですから人がお粗末にしておるものを大事にしておると、こっから降りて行って神様が、どうも信ちゃん有難うとお礼ば言いたいような心が神さまの心なんです。ね、ここんところが分かったら本当に神様にお礼が言うて貰えるぐらいなです、言うならば一切のものをおし頂く心を頂かねばならない、そのおし頂く心を今日は和賀心と聞いて頂きました。今月の焦点今朝の御理解に頂きますと、ね、慢心は大怪我の元と仰るが、
あたくしは今朝そう言う御理解を頂くかと思うた。ご神前で頂いたら調度あの天狗さんの面がここにつけてある、それにこう帽子やらかける事が出来る。腹んとこにこうかける事なる訳ですね。帽子ぐらいならよかけどチョット濡れたような外套のような、重たいようなものをかけたら腹の付け根がポロッと、折れたお知らせを今朝頂いたんです、天狗さんと言う事はやっぱ鼻が高くなると言う事は、やはりねやはり慢心だと思いました。そしたら今朝の年よりを、人間を軽う見るな軽う見るとおかげはなしと言う事である。その軽う見るその心がすでに慢心なのです。人を軽う見ると言うその心が神様の機感に叶わんです。俺よりも私よりもと、ね、下に見下す事がいけんのです、だからあたくし共はまずはあたくし共の持っておるプライドを捨てなければいけません。ね、そしてギリギリ最近言われる私が分かる、
自分自身が分かって来る時にです、ね、本当に無力である自分が分かれば分かる程縋らなければおられない、願わずにはおられないもう願わずにはおられないと言う心がね、真の信心だそれが実意を持って願う姿勢だと言う風に聞いて頂いております。ね、ですからこう言う心をいよいよ今月はです、ね、本当なものにして行く事に、焦点をおこうと言うのが今朝からの御理解でした。どうぞそれこそ上を見らずに下を見る、いつも自分自身の心を見極める、今日戎浦さん所の一番下の娘さんが朝御祈念で御心眼を頂いてる、こう落書をしておると消し、又書いたのを又消し、書いては消し書いては消しをしてるとこを頂いたんです。あたくし共が一日をズット振り返って見ると、あれもお粗末であったあれもご無礼であったろーうと思う事が一杯です、ね、だからもう人間だからこれぐらいの事当たり前と言う所にです、もう汚れに汚れ果ててしもうて性が変わるようになります。そこで日々をですわたくし共は、
お詫びをさして貰うて、ね、消しては又書いては汚しては又消して、繰り返しをしておる内にはです、段々汚さんで済むようなおかげにもなってこようと言うものであります。ね、そう言う謙虚な信心を信心の焦点として、所謂もう幾日にせまりました8日までです、の寒修行をです、ね、ひとつ寒修行に頂いた信心をひとつ土台の元にして、いよいよ本気で信心の稽古に取り組ませて頂きたい、それにはまず金光大神のおかげで金光大神がお取次ぎを下さる、それを頂いて帰らせて貰うておかげを頂く時にです、成る程金光様有難うございます、あなたのおかげで天地乃親神様のおかげが受けられるようになったと言う御礼が言えれるおかげを頂きたいものでございます。どうぞ。